50周年を迎え、
今も語り継がれる伝説の
ロックフェス『ウッドストック』

フェスにおけるボブ・ディランと
吉田拓郎へのヤジ

60年代中頃以降、『ニューポート・フォーク・フェス』にはロックのアーティストもしばしば登場するようになる。このフェスで特に知られているのは、フォークからロックへ転向したということで、旧態依然としたフォークファンからボブ・ディランが罵倒を浴びせられたエピソードかもしれない。フォークの神様ディランがロックに魂を売ったという出来事は、60年代半ばまでのロックの置かれた社会的立場が低かったことを意味する。当時、フォークやブルースのアーティストは政治的な立場をしっかりと持っており、若い学生でも公民権運動やベトナム戦争などに対する意識が高かったのである。もちろん、当時の日本でも社会問題や安保条約に対して自らのスタンスを明確にする若者は多かったし、アーティストたちに対しても反体制でなければ認めないなど、そんな時代でもあった。

日本での野外フェスの草分けで、69年に始まった『中津川フォークジャンボリー』の第3回(71年)に出演した吉田拓郎が岡林信康や高田渡らのファンからヤジられたり、ジャズヴォーカリストの安田南のステージでは暴徒が乱入してフェスを妨害するといった事件が知られているが、世界的に体制と反体制が二分化していた時期なのである。60年代の後半になるとロックも表現手法が複雑になって音楽性や芸術性の高いものが生み出されるようになり、多くの支持を集めるまでに成長する。ほんの数年で、ディランへのバッシングはまるで遠い過去の出来事のように霧散していく。

『ウッドストック・フェス』への道のり

話を戻す。『ニューポート・フォーク・フェス』は当初からライヴ録音や映像化が進められており、これが後の『ウッドストック』への布石となる。67年に行なわれた最初の大きなロックフェスと言っても過言ではない『モンタレー・ポップ・フェスティバル』に影響を受けたマイケル・ラングは、翌68年にフロリダ州マイアミで『1968ポップフェスティバル』を主催する。このフェスにはジミヘン、マザーズ、ブルーチアーなどが出演し、2万5000人もの観衆を集めることに成功した。

ラングはウッドストックにレコーディングスタジオを建設し、ディランやジャニスなどの多くのアーティストに使ってもらうのが夢であった。その資金を捻出するためにもっと多くの人が集まる野外フェスを開催しようと、キャピトルレコードのアーティ・コーンフェルドに相談すると、資金集めには大きなフェス(ラングはノウハウがあるから)をやるべきだという結論に達し、ジョン・ロバーツ(資産家)とジョエル・ローゼンマン(弁護士)に資金の調達を依頼、賛同を得ることができた。

しかし、何と言っても最大の問題は、大きな野外会場を確保することだ。ウッドストックは東部とはいえ保守的な田舎であったからフェスの会場探しは困難を極めた。最終的にウッドストックから少し離れたホワイトレイクにあるマックス・ヤスガー農場に決まったものの、場所が決まったのはフェスの1か月半前のこと…。

出演者のブッキングは、当時圧倒的に人気があったCCRの獲得にまず成功する。CCRが出るのならばと、他のアーティストも次々にサインし、30組を超える出演者が決定した。ラングが手がけた前年の『ポップフェス』にマザーズを率いて出演したフランク・ザッパは、田舎での野外フェスに難色を示し辞退している。

OKMusic編集部

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