Hysteric Blue?藍井エイルバックバ
ンドのドラマー?ヒプノシスマイクの
楽曲提供者?様々な顔を持つ【楠瀬拓
哉】という男の40年に迫る

楠瀬拓哉とはいったい何者か?「ああ、あのHysteric Blueの」「藍井エイルでドラム叩いてる人?」「『ヒプノシスマイク』で曲聴いた」「2.5次元舞台の音楽よくやってるよね」「この間、清春のライブでドラム叩いてた」「BiSHもやってた」等々、その活動フィールドはあまりに広大、かつフレキシブルな魅力あふれるもの。そんな彼が自らの生誕40年を記念して行うイベントが、4月19日にVeats SHIBUYAで開催される「PARTY 40」だ。自ら参加する三つのバンド、Rest of Childhood、月蝕會議、MIMIZUQのライブをメインに、今後発表される多彩なゲストを交えた、それはまさにジャンルを超えた音楽好きのためのビッグ・パーティー。「音楽で食っていく」と決めた18歳の少年は、いかにして音楽に愛される存在へと成長したのか? 波乱万丈のヒストリーをたどるロング・インタビュー、まずは前編として、Hysteric Blueのデビューからアニソンとの出会いまでを語ってもらおう。

――「PARTY 40」ということですけど、40年前から語ると大変なことになるので(笑)。デビューあたりから語りだしたほうがいいかなと。Hysteric Blueのドラマーとしてデビューしたのが1998年、18歳でしたっけ。
そうです。僕の場合インディーズ時代がないんで、とんとん拍子という感じでしたね。そしてその時が人生最大のヒットですから。高校3年生の時にデビューして、セカンド・シングルの「春~spring~」でブレイクさせてもらったんで。その時は知識もテクニックもないですし、プロデューサーの佐久間正英さんにおんぶにだっこでした。昨日が命日だったんですね(*取材日は1月17日)。明日、club251でイベントがあって、叩きに行くんですよ。息子の音哉さんのバックで。実は今回の「PARTY 40」は、何年か前に佐久間さんの還暦祝いの「Party 60」というイベントがあって、そこからもじってるんです。
――ああ! なるほど。そうか。
佐久間さんからもらったものはすごく大きいです。演奏がヘタなところは直してくれて、プレイもアティテュードも全部サポートしてくれた。僕のミュージシャンとしての命は、そこでいただいたようなものだから、僕が音楽で得たものはそこに返したい。そんなこともあって、ヒスブルが解散しても東京に残ったんですね。音楽でもらったものが、貯金も含めてあるうちはこっちで頑張りたいと。ソニーの人は全員、「大阪に戻って学校に行けよ」と言ったんです。大学も休学してたから。でもそこで頑張って下積みをやり直したおかげで、今はやっとミュージシャンになれたんですけどね。
――話をちょっと戻して。ヒスブル時代は、いきなり大ヒットで、嵐の中にいたみたいな感じですかね。
当時は、そうですね。僕個人はけっこうミーハーなんで、「うおーテレビの現場や!」「ラジオの生放送やで!」とか、すべての仕事に興奮してました。インタビューでも、素人みたいなものがいきなりパシャパシャ写真を撮られて、今見たら「服に着られとるがな!」というものばっかりですけど(笑)。でも周りの人は、なんとかこの普通の男の子をミュージシャンぽく見せようとして、頑張ってくれてたんだなと思います。当時は自分の意志とか何にもなかったんで、ただただ楽しくて、毎日ワクワクでした。
――結局、何年やりましたっけ。ヒスブルは。
たぶんメジャーで6年ぐらい。2003年ぐらいに休止して、その1年後に解散しました。
――ぶっちゃけ、バンドの後期はテンションが下がってたんですか。
そうですね。オリジナル・アルバム5枚目まで行けたんですけど、もう3枚目の前には、ボーカルがやめると言ってて。一回持ち直して、続けたんですけど、そこからはみんなのがむしゃら感が違いましたね。
――なんだったんでしょうね。疲れちゃったのかな。
女の子やし、子供やったし、「仕事だから」ということにはならかったんでしょうね。その代わり1枚目と2枚目は、相当量の純朴なエネルギーを詰め込みまくってるものだと思います。スタッフさんも含めてイケイケで、無敵ゾーンに入ってました。ただ、後期のテンションの違いはバンドをやることに嫌気がさしたわけではなく、結果が出ないというのが理由なんですけどね。そりゃそうなんですよ。もうやめると言って、またやりますと言って、スタッフの士気も下がるし、じゃあいいよということになるじゃないですか。新しいバンドもどんどん出てくるし。それで活動休止して、ソロ活動に入って、解散したのが2004年ですね。僕は24歳で、本厄です。
――あらら。
そして今年から二度目の前厄に入りました(笑)。
楠瀬拓哉
――何かの因果が巡ってますね(笑)。その次が、5人組のラウドロック・バンドのShing?
Shingは、ヒスブルの後期とかぶってますね。最初にボーカルがやめると言い出した頃、よく遊んでいた仲間と洋楽を聴きまくってたんですけど、それをコピーしようぜといって、遊びでやってたバンドが母体なので。僕はそれがすごく楽しくて、男の子ばっかりでやることもそうだし、そもそも洋楽を聴いてきてなかったんですよ。流行りのJ-POPばっかり聴いて育ってきたから、音楽を作る人としての引き出しはそんなに大きいものじゃなかった。当時はラップ・メタル、ミクスチャーとかがすごい流行ってる時期で、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、リンプ・ビズキット、リンキン・パークとか、そこから洋楽を聴くようになったんですね。
――そのへん、めっちゃ流行りましたよね。
昔は、洋楽って歌詞の意味がわからないから聴かなかったんですよ。グリーンデイ聴いても歌詞の意味がわかんないけど、ブルーハーツのほうがバン!と入ってくるから好き、みたいな。デビューしてもそうだったですね。ドラムのプレイに関しても、それまではエイトビートを叩けただけだったから、洋楽のハネたノリは難しかったんですよ。でも20代前半以降は、Shingの仲間たちとそういうことを始めて、手数の多いメタルっぽい曲とかをやってるうちに、必然的にテクニックも身についてきた。それが2004、2005年ぐらいですね。その頃は仲良くなるバンドも、日本のアンダーグラウンド・シーンのバンドばかりでした。downyを初めて見た時はすごい衝撃で、照明も暗いし、全部変拍子で、歌詞も聴き取れない。そこで満員のお客さんがゆらゆらしてる。「うわーこれが東京か」と思って、そのシーンにすごいのめり込んで、難しいものこそ面白いと思って変拍子をいっぱいやりました。54-71も大好きでしたね。ライブは絶対行ってたし、仲良くなって、アメリカ・ツアーにもついて行ったんですよ。「運転するから連れて行って」とか言って。ディアフーフと二つで回ったツアーについて行きました。
――すごい行動力だなあ。
54-71は、「サラリーマンは月~金で働いてるんだからミュージシャンも」とか言って、月~金でリハスタに入って毎日6時間、ずーっと拍子の取りづらい曲の練習をしてる。変態なんですよ(笑)。それをShingのメンバーがみんな大好きになっちゃって、「俺らもやらなアカン」とか言って、難しい曲を作っていっぱい練習しましたね。だから皮肉ですけど、ヒスブルをやめてからのほうが、ちょっとドラムは楽しくなりました。
――ある意味、もう一度修行し直す時期みたいな感じですかね。
Shingは、ラウド・シーンで同じようなバンドとよく対バンしてましたね。NICKっていう、P.T.P.のメンバーだったJINくんのバンドとか。JINくんは、今はGReeeeNのプロデューサーですね。PABLOくんや、BONESのTSUYOSHIくんや、そのへんの仲間とも近いシーンです。Shingのベースの唯世は、PABLO BANDでもやってたし。Shingはそういうシーンにいたんですけど、みんなから見たら俺はJ-POP上がりで、「どこにでもおるけど、ほんまはどれなん?」みたいな感じあったかもしれない。言ってしまえば、八方美人。自分でも好きではないですけど、しゃーないです、これは。
――うーん、八方美人という言い方はちょっと違う気がするけれど。
十方美人ぐらい言っといたほうがいいですかね(笑)。僕のいっちょがみ人生は、その頃から始まってます。Shingのメンバーは、僕以外は音楽を離れちゃったんで、寂しいですけど。でもあの頃近くにいた、各バンドからだいたい一人ずつぐらいが職業音楽家として残ってるんですよ。
楠瀬拓哉
――そのあと、ヒスブルのTamaちゃんと再合流するんですよね。それがScreaming Frogs。
Screaming Frogsは、ヒスブルを休止してソロを始めた時に、彼女はバンド形態を作ったんですね。Tama with Screaming Frogsみたいな感じやったんですけど、自分が矢面になるのは嫌やからScreaming Frogsというバンドにしましょうということでやっていた。
――そしてそこに入っちゃう。
それも僕の中では紆余曲折あって、彼女は彼女、俺は俺ということで、接点はまったくなかったんですけど、Screaming Frogsはドラムがサポートだったりして。「ライブやんないの?」って聞いたら、「メンバーが揃わなくて」って言うから、「ドラムがいたらできるんやったら手伝おうか?」みたいな感じでしたね。僕はドラムが叩けるんやったら、ほかのことは何も厭わないんですよ。で、やってみたら、同じ家で育った二人なので、一緒にやることはファンの人も喜ぶし、僕らもしっくり来るんですよね。仲がいいと悪いとかじゃなく、大阪にいる時からずっと一緒にやっていたわけだから。それで結局、メンバーに入っちゃう。僕も曲を書いたりして、Screaming Frogsとしても活動していたんですけど、それはそれでいいけど、Tamaというソロシンガーの形式があってもいいんじゃない?という提案をしたんですよ。それは人のカバーをやってもいいし、ヒスブルの曲も歌えばいい。どこへ行っても、あなたが歌手として身軽にやれる形があったほうがいいと思ったのと、もう一個、僕のソロとして僕がやりたいことだけをやるから、それを手伝ってくれと。それがSabão(シャボン)なんです。
――ああー。そういうことか。
一朝一夕じゃないんです。すぐに一緒にやろうとはならない。だけどある時「こうしたら良くなるんじゃない?」というものがひらめいて、繋がっていくんですよね。そこで僕は、ついこの間までラウドラウドしていたものが影を潜めて、ガールポップになっていく。僕が書く曲は、彼女が歌うのが合ってるんじゃないか?というふうに、また思い直す。そういう時期が、おととしぐらいまでですかね。
――Sabãoも、けっこう長いことやりましたよね。
4、5年かな。
楠瀬拓哉
――こうやって聞いていると、楠瀬拓哉の音楽性って、大きく分けると二面性になるのかな。ラウドなやつと、ポップなやつと。それが行ったり来たり、揺れ動いてる。
20代の頃に触れてきたのが、その二大シーンでしょうね。逆にヒップホップとか、ジャズとかは通ってない。基本はロックを下敷きにしたもので、それがメタルなのかラウドなのか、女の子が歌ってるのかの違いだけで。だから僕はアニソンにフィットしてるんだと思うんですよ。
――ああ、そうだ。確かに。
キンキン高い声の女の子がメタルを歌うのがアニソンだ、とは言いませんけど、そのパターンがアニソンには多い。だからフィットしてるのかなと思います。藍井エイルちゃんの曲をライブでやってるのもそうだし。
楠瀬拓哉
――その話もぜひ聞きたいですね。アニソン、声優ソングとの接点はいつから、どこで?
最初の接点は、ランティスですね。当時も今も僕はやっぱりドラムの仕事がしたくて、でもドラムの仕事なんてほとんどないわけです。席がない。今はほとんど打ち込みで、レコーディングもしないですし、ライブのサポートも、20個ぐらいの椅子は全部埋まってる。ドラマーは50人ぐらいいるけど、常に満席で、人気ある人はいくつも兼任してる。でもやりたいと常に思っていて、たぶんScreaming Frogsに入る前だったと思うんですけど、CATAMRANという、男性ボーカルのちょっとフォーキーな歌ものロックバンドをやっていた時期があって。その時のベースが中村泰三くんといって、もともとcuneのベースで、そのあとスタジオ・ベーシストの道を歩んでいたんですけど、うまくてうまくて、引っ張りだこだったんですよ。当時も今も。彼みたいになりたいとずっと思っていて、そのバンドに誘い込んだんです。CATAMARANは2、3年やったのかな。そこでベースとドラムとして彼とのマッチングが良くなったこともあり、彼がレコーディングに誘ってくれた。伊藤かな恵ちゃんという声優さんの歌もので、それが最初です。
――そこでランティスと接点ができた。
そうです。当時の副社長が僕のプレイを「いいね」と言ってくれて、ちょくちょく呼んでくれるようになった。それが2013、14年ぐらいで、ランティスのアニソン案件に参加するようになったんですね。アニソンと言うか、声優さんのレコーディングに。その人は3年ぐらい前にランティスをおやめになったんですけど、お気に入りの人をいっぱい使うという感じで、ドラマーにとっては冬の時代だったけれど、僕はいっぱい呼んでもらえた。レコーディング仕事は、現場でプレイして、集中力を試されて、音を追い込むのが一番の経験なんで、ノウハウも溜めることができました。
――二度目の修行時期ですかね。
そうかもしれない。今でも覚えてるんですけど、小野賢章くんという声優さんがデビューする時に、デビュー・シングルを僕にやらせてもらったんですけど、持って行ったタイコのチョイスも曲に合ってないし、プレイの精度も良くなくて、けっこう時間がかかっちゃったんですね。なんとか録れたんですけど、スタジオ・ミュージシャンとしては恥ずかしいことをしてしまった。それでもセカンド・シングルにも任命してくれたので、今度は完璧にしなきゃいけない。前日もスタジオに個人練習に入って、全部シミュレーションして、それはうまくいったんですよ。そこでまた呼んでもらえたことが、僕の救いになってます。
――もしもそこで切られたら…。
代わりはいくらでもいたと思うんですけどね。小野賢章くんは、その後ライブのバンマスもやらせてもらって、現場の経験も積ませてもらった。すごく感謝してます。その後は、仕事が仕事を呼ぶじゃないですけど、そういうタイプの営業ですね。「あの時の現場を見てました」とか。それしかやってきてないです。
(後編につづく)

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