【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#171
ミュージシャン・藤原ヒロシの言葉

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

1万枚売れていたものが100枚になったと
しても、価値が無くなるわけではないで
すからね

より

1980年代にDJ、ヒップホップミュージシャン、さらには裏原宿ブームの火付け役として、当時のストリートカルチャーをリードした藤原ヒロシ。そんな藤原が2013年、シンガーソングライターとして初となるアルバム『manners』を発表した。今回の名言は、それを踏まえてのインタビューからの抜粋である。『manners』は、アルバムタイトルが決まっていない段階から、CDパッケージにCDが入らなそうなサイズの箱を作りたいという構想があったと明かす。その話を受けてインタビュアーが、「ジャケット自体が重要視されなくなってきているという現状」について話をふる。藤原は、「それは確実にありますよね。でもゼロになることは絶対に無いと思うんですよ」と語りつつ、今回の名言に続く。低迷が続く現代の音楽業界にとって、重要な考え方のひとつではないだろうか。

藤原ヒロシ (ふじわらひろし)
1964年2月7日生まれ、三重県伊勢市出身。DJ、ミュージシャン、音楽プロデューサー、ファッションデザイナー。1982年、新宿のディスコ・ツバキハウスで行われた音楽評論家 大貫憲章主催のクラブ・イベント『ロンドン・ナイト』のファッション・コンテストで優勝する。 副賞のロンドン行きチケットで、ロンドンに1ヶ月滞在。セックス・ピストルズのプロデューサーとしても知られる、マルコム・マクラーレンら当時のロンドンカルチャーの中心人物たちと交流する。1983年、マルコムの勧めでヒップホップカルチャーを体験するためにニューヨークに渡る。 帰国後に、DJとしての活動を開始する。日本人で初めて「スクラッチ」を披露。1985年、高木完と共にヒップホップユニットのタイニー・パンクスを結成。1986年、日本初のクラブミュージックレーベル『メジャー・フォース』に参画。90年代からは音楽プロデューサーとして、小泉今日子藤井フミヤ、UAらの作品に関わる。 2006年、DJを廃業しギター演奏による音楽活動を開始。 2011年、YO-KINGと共にユニットAOEQを結成。ソロのシンガーソングライターとしても現在まで活動を続けている。1990年代は、ファッション・カルチャープロデューサーとしてカリスマ的な存在となる。世界のファッション関係者からも「キング・オブ・ストリート」と称されている。2008年、村上隆との共同によるアートコレクション展『Hi&Lo』を開催。2020年10月7日、3年ぶりとなる新アルバム『slumbers 2』をリリース。
仲村 瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。

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